30代共働きの子育て記録

東京から地方都市へ移住したフルタイムワーママの子育てや仕事のはなし。

母親になって後悔してる読んだ

もし今の知識と経験を持って過去に戻れるとしたら、あなたは母になる/子供を産むでしょうか?

母親になって後悔してる

出産を機に母親にのしかかる重圧。子ども達を愛している、それは疑いのない事実。でも、私は母親にならなければいけなかったのだろうか?

こんなこと、この本を読むまで考えもしなかった。私にはもう子ども達がいない人生なんて考えられないし、子ども達がいたからこそ見えた景色、経験できた出来事、まだ4年ぽっちなのにたくさんある。イチタを授かるまでに不妊治療とまではいかなくても1年半と時間がかかり、私自身が強く望んで迎えた妊娠出産だったと間違いなく言える。なので、この本で著者が研究対象とした母親には私は当てはまらないことになる。でも、読み進めていくうちにあぁ、これ私だ、あの時の、あの場面の、私だ、と思った。

 

グサクサ刺さった2章。この本の著者はイスラエル人女性なのだが、日本でもこの世間一般に期待される『母親像』が強すぎて母親自身にも呪いをかけてると思う。

 

p.66 2章 要求の多い母親像 『良い母親』と『悪い母親』:彼らは常に『母親像』を追いかけている

フェミニスト作家のロジカ・パーカーはこう述べている。『子どもは、多少の困難を伴いながら、母から離れた一個人であるという感覚を増大し続けるが、女性は母という概念の中でアイデンティティを進化させる。赤ちゃんの頭を支える母から、ベビーカーを押す母へ、手を振る母へ、差し出す手を握るのを待つ母へと。しかし、常に母である。子どもが母から離れて『垂直方向に』成長するのに比べて、水平方向に伸びていくのである。』

子どもの将来を考えて、その時あたしいくつだろ、と計算するといつも軽く絶望する。その時の私に一体何が残るのか、青年期にかけ輝きを増していくであろう子ども達を前に、彼らに嫉妬せずに自分の人生を楽しめるかは、今からどれだけ自分を大切にできるかにかかっている気がしている。見た目だけの問題ではなく、中身も。

母の感情は、子どもの行動や時間、空間、母にできる支援に応じて、一日の間にも長い年月の間にも、確実に変化する可能性があるにもかかわらず、期待されるのは、すべての母が同じ感情を、一貫して持ち続けることなのだ(中略)疑問や条件なしにわが子の一人一人を愛し、母であることに喜びを感じなければならない。

これは日本で子育てしている母親みんな頷くところじゃないかと思う…通りすがりのおばあちゃんに『一番可愛い時ね』って言われても、そうですね、可愛くて仕方がないです。と素直に返せる母親、日本にどれくらいいるのだろう。

 

p.154 4章 許されない感情を持って生きる 過去の私と今の私

マヤ(2人の子供の母親)

娘は、見た目が私に似ています。浅黒い肌に巻き毛の髪-(白人が多い社会では)珍しい外見です。(中略)一緒にお風呂に入っているときに、3歳の娘が言ったんです。『ママ、色が落ちないの。ここはいいのに(マヤは手のひらの白い部分を指す)。ここは茶色すぎるわ(マヤは手の甲を指してこする)』。それからの2週間…自分がどうしたらいいのか、わかりませんでした。娘に何をしてあげたらいいのか。突然、子ども時代の不安がすべてよみがえりました。

日本でしか生活したことないけれど、この母親の絶望というか、あ、また私が経験した不安、不幸をこの子も繰り返すのか…というやるせなさは想像できた。そして皮膚の色などの分かりやすい身体的特徴以外にも、特に母親と娘という関係は、母親とその母親の関係を引きずってしまうよなぁと思った。私自身、イチタは私とは別の個人であるという理解が赤ちゃんの頃から難なくできたのに、ニコに対しては成長するに従ってつい自分と重ねてしまってニコ個人の尊重ができてないと思う場面がしばしばある。そのたびに、ニコはニコなのだ、私じゃない、と言い聞かせる。女の子を育てるのは、実母との確執がある私にとっては難しいことだと感じてしまう。

 

この本では研究対象となった後悔する母親に様々な質問を投げかけて、その回答を紹介しているが、そのひとつひとつに、後悔していないはずの私にも思い当たる節がある。母親だって人間なんですよ、そりゃ後悔することだってありますよ、ここ(母親になったこと)だけ後悔してはいけない聖域とかタブーなんかじゃないですよね、ということをこの本では投げかけている。

子育てに悩んでいる母親に対する、母親なんだからあなたがしっかりしなきゃ、とか、あなたが自分で選んだ道でしょう、なんてアドバイスは、アドバイスなんかじゃなくほとんど暴力に近い言葉なのだと思った。